野村ならではの強みを活かし、地域を代表する存在に元野村訪問看護ステーション所長 家崎芳恵
三鷹一、多摩一のオンリーワンの 訪問看護ステーションを目指して開業
慈生会に野村訪問看護ステーションが開設されたのは1997年(平成9年)のことである。それまで三鷹市には医師会所属の医療法人による訪問看護ステーションがなく、医師会長に就任した野村幸史理事長が率先垂範の意味も込めて開設したのである。そこには、地域に根ざし、地域と共に歩み、地域に貢献する医療法人でありたいという、野村理事長の強い思いがあった。これにより、1976年に開設した予防医療センターによる健診事業と併せ、慈生会は地域社会に対してより幅広い医療サービスを提供する法人として本格的な歩みを開始した。
訪問看護とは、住み慣れた自宅で安心して療養生活を送れるよう、看護師やヘルパーがお宅を直接訪問し、病気や障がいに応じた看護を行うサービスのことである。主治医や地域のケアマネージャーと連携しながら、健康状態の観察、病状悪化の防止と回復、点滴・注射などの医療処置、痛みの軽減や服薬管理などを行う。訪問看護ステーションは、そうした医療サービスを手厚く提供するための医療法人で、看護師や理学療法士、ホームヘルパー(医療行為を除く入浴、排泄、食事介護、家事などを行う)などを擁しており、その数は全国で15,697ヵ所(2023年4月現在、全国訪問看護事業協会調べ)にのぼっている。
野村訪問看護ステーションは「安心はぬくもりある看護から」を理念に掲げ、看護師やリハビリスタッフによる専門的で質の高いサービスの提供を目指してスタートした。家崎芳恵さんが野村訪問看護ステーション3代目の所長に就いたのは、訪問看護事業がまだ発展途上の状態だった2005年(平成17年)である。
「野村病院の名前は知っていましたが、訪問看護ステーションの所長にというお誘いがあったとき改めて調べてみると、病院だけでなく、訪問看護ステーションと地域包括支援センターが連携する体制がしっかりと築かれていることを知りました。また、当時は病院入り口すぐ横の目立つところに訪問看護ステーションの事務所があり、地下や片隅に設置されがちな他の法人との違いにびっくりしました。私にとっては理想的な職場だと思い、躊躇することなくお世話になることを決めました。野村理事長からは、三鷹一ではなく多摩一のオンリーワンの訪問看護ステーションを目指してほしいと言われ、その期待に応えようと、気を引き締めて入職しました」
教育研修を通じ豊富な人材を擁する組織をつくりあげる
しかし実際に着任してみると、まだまだやるべきことが多いと感じたという。
「ヘルパーの方が2人しかおらず、看護師にも訪問看護の芯となる考え方が徹底されていないように感じました。大手と張り合うような規模の大きさを目指したわけではありませんが、訪問看護を必要とする地域の方に十分なサービスを提供するためには、まず訪問看護ステーションの基礎を固める必要があると思いました」
そう語る家崎所長のもと、まず取り組んだのが教育の整備・拡充である。訪問看護の目的と社会的意義に対する理解、求められる資質とスキルなどを学びながら、訪問看護師としてのラダー(はしご)を登っていける仕組みづくりに着手したのである。それに加えて大きな効果をあげたのが、野村病院の全面的な協力を得て、認定看護師によるコンサルティングを実施したことだ。皮膚・排泄ケアおよび摂食・嚥下の認定看護師を招いて、専門知識を学び、悩みなどについてのアドバイスを受けたのである。
その後、皮膚排泄ケア認定看護師とがん看護専門看護師が新たに入職、スタッフ自身のキャリアアップに対する志気も高まり、緩和ケアや訪問看護の認定看護師資格を取得し、ステーションの人材育成は着実に進んだ。この規模の訪問看護ステーションとしては異例ともいえる、豊富な人材を擁する組織へと拡充していったのである。
もう一つ力を入れたのが、地域との連携だ。訪問看護事業を円滑かつ支障なく行うにためは、日頃から地元の医師やヘルパーと信頼関係を築き、いざというときに地域全体で利用者をケアする体制を整えておくことが非常に重要となる。家崎所長を中心に、スタッフは積極的に地域との交流を進め、人脈を築いていった。後にこのことが大ピンチを救うこととなる。
クラスター発生! コロナ禍で発揮された地域との連携
1997年の開設以来、着実に地域で存在感を高めてきた野村訪問看護ステーションだが、予期せぬ危機に直面したことが何度かある。その最大のピンチとして、家崎さんがいの一番にあげるのが新型コロナウィルス感染症への対応だ。2020年12月31日の大晦日、突如としてステーション内でクラスターが発生したのである。
「明日は元日という大晦日に、私のところに訪問看護師から「発熱しました」という電話がかかってきました。彼女は 3 日前に利用者宅を訪れ、その人が後日、新型コロナに感染していることが判明したということでした。もしステーション内で感染者が増え、そのことを知らずに利用者のお宅に行けば大変なことになります。そのリスクに思い至ったときには血の気が引きました」と家崎さんは振り返る。
それからの慈生会の対応は迅速だった。家崎さんから一報を受けた野村病院では、1月1日にスタッフ全員に検査を実施。すると、新たに4名の感染が判明した。いずれも無症状だったが、他者への感染リスクがあることは言うまでもない。これを受けて慈生会の総務課では1月2日にステーションの事務所の消毒を行い、スタッフ全員に2週間の自宅待機を命じた。どうしても訪問看護を行う必要のある利用者については、スタッフに対して直前に検査を行い、陰性であることを確認した上で訪問することとした。しかし、そうした緊急対応だけで2週間の長丁場を乗り切ることはできない。
「正月三が日はなんとか凌げても、それから後のことをどうするか、早急に対策を考えなければなりませんでした。もはや正月どころではありませんでした」と家崎さん。この絶体絶命のピンチに助けの手を差し伸べてくれたのが、他ならぬ地域の人たちだった。野村訪問看護ステーションからの依頼を受けた訪問診療の医師やヘルパーの人たちが、快く代役を買って出てくれたのである。
「“うちも大変なんですよ"などと言う人は誰一人いませんでした。このときほどうれしく、ありがたく思ったことはありません。このご厚意に報いるために自分たちにできることは、これ以上スタッフから感染者が出ないことだけでした」
このように、日頃から地域の医師やヘルパーの人たちと信頼関係を築き、地域全体で訪問看護が必要な人を支えていこうという共通認識が、非常時を乗り切る力となったのだ。
もう一つ忘れてならないのが、2011 年に発生した東日本大震災時の対応である。特に地震後に実施された計画停電への対応は、医療機関にとって最優先課題だった。また、自宅で酸素吸入を行っている人にとっても、停電中は酸素ボンベに切り替える必要があった。このため、野村訪問看護ステーションのスタッフは、停電中は酸素ボンベに切り替えるよう電話連絡するとともに、不安のある利用者にはお宅を訪問して措置を行うなど、対応に追われた。
原発事故が重なって世の中全体が騒然としていた3.11のときも、未知のウィルスのパンデミックに国民の多くが不安に駆られていたときも、訪問看護スタッフは泣き言一つ言わず、プロとしてのプライドと使命感によって、粛々とやるべきことを遂行した。それが可能だったのは、日頃から災害発生時の対策を準備していたことに加え、仲間がいて、お互いに励まし合い、助け合うことができたからだ、と家崎さんは語る。
SNS も活用した人材の確保が急務
このように、野村訪問看護ステーションは、スタッフの努力と慈生会の全面的なバックアップにより、地域の中で着実に存在感を増してきたが、一方で課題も少なくない。その中で最大の問題が人材の確保である。
東京都では年に100箇所以上の訪問看護ステーションが開設する一方で、同じくらいの数の訪問看護ステーションが閉鎖されているという。その主な原因が人材不足である。野村訪問看護ステーションも例外ではなく、「所長になってから、ほとんどの時間を人の採用に費やしてきた」と家崎さんが苦笑するほど、人材確保が事業継続の条件となっている。「人を育てることは大切ですが、その前に採用できなければ意味がありません。最近は SNS の活用も必須で、時代の変化に合わせて、採用活動の方法も変えていく必要があると思います」
人材確保のほか、今後の野村訪問看護ステーションに求められることは何か。それは、強みを活かすことに尽きると家崎さんは強調する。
「訪問看護ステーションと地域包括支援センターがしっかりタッグを組み、しかも病院がある。この規模でこれほど充実しているところは珍しいと思います。その強みを最大限に活かし、さらに伸ばしていくことが大事だと思います。弱いところや足りない点は外部に任せればいい、と割り切ることも必要です。そういう戦略的な考え方で、これからも地域の中でなくてはならない存在として、訪問看護事業を継続・発展していってほしいですね」と家崎さんは期待を述べている。
※『地域と共に歩む野村病院』-創立70周年の先を目指して-からの転載